2011年11月16日 教職員礼拝 島田隼人 「ただのひとりも」、「弱いときにこそ強い」

2011年11月17日

 

 

「ただのひとりも」

心のチキンスープから チャド君の話

チャドは無口ではにかみ屋の少年だった。ある日、学校から帰ってきて母親にこう言った。

「バレンタインの日には、クラスのみんなにカードをあげるんだ」

 

母親は少し憂鬱になり、「そんなこと、しなければいいのに!」と思った。なぜなら彼女は学校から帰ってくる子どもたちの様子を、いつも目にしていたからである。息子のチャドは、いつだってみんなの後ろをついて歩いていた。ほかの子どもたちは笑い、じゃれあい、おしゃべりをしていたが、チャドだけはひとり、仲間はずれにされていた。気が重くなったが、それでも彼女は息子の願いをかなえてやろうと、紙とノリとクレヨンを用意した。それからの三週間、チャドは毎晩遅くまで苦労してクラスメートの人数分、35枚のカードを作った。

 

バレンタインの日が来た。チャドはうれしくてはしゃぎぎみ、カードをていねいに束ねてカバンに入れると、玄関から飛び出していった。母親はチャドの好物のクッキーを焼くことにした。どうせ誰からも何ももらえずにがっくりして帰ってくるのだから、せめてできたてのクッキーにミルクをそえて慰めてやろうと思ったのだ。

 

きっと多くは、いや、ただのひとりもチャドにプレゼントなんてくれないだろうと思うと、心は痛んだ。午後にはクッキーとミルクがテーブルに並んだ。子どもたちの声がしたので、母親は窓から外を見た。子どもたちはみな楽しそうに笑い、はしゃぎながら歩いてくる。チャドは、いつものようにしんがりでついてくるが、手に何ももっていなかった。いつもよりは足取りが速いようだ。きっと家に入ってくるなり、ワッと泣き出すのだろう。玄関があいたとき、母親は涙をぐっとこらえながら

「ほら、クッキーとミルクを用意しておいたわよ」

と優しい声をかけた。だが、チャドは母親の声にはろくに耳を貸さずに、顔を輝かせてはずむように歩いていった。

「ねえ、ひとりも。ただのひとりも・・・」

言いかけた言葉を聞いて、母親の胸はふさがりそうになったが、彼はこう続けた。

「ぽく、ちゃんとあげられたんだ、ただのひとりも忘れずに。ただのひとりもだよ!」

 

 

キリストの福音

 

私達も、私たちの関わるすべての人に、キリストの福音という素晴らしいカードをわたしましょう。
ヨハネ3:16 「神はそのひとりごを賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命をえるためである」
母親が気にしていたのは、「ただのひとりも」チャドにプレゼントをくれないだろうということ。しかし、当のチャドが気にしていたのは誰かが何かを自分にくれることではなく、「ただのひとりも」もらさずに、自分が一生懸命心をこめて書いたカードをわたすことだったのである。
キリストの願いもこれと同じ。キリストの示した犠牲と愛を「ただのひとりも」もらさずに、全ての人に与えることだったのである。

 

「弱いときにこそ強い」

私たちは、喜んで私たちの関わる全ての人に福音を述べ伝えたいと思う。しかし、福音を述べ伝えようとするときに、色々な事情や感情、迫害や困難、行き詰りを感じる事があるだろう。そんなときに私たちはどのように感じ考え、その障壁に対処することができるのだろうか。

 

ルーマニアのクリスチャン男性の話

ルーマニアがまだ共産主義国家であった頃の話。一人のキリスト教を信仰する教会の指導者が、公安局に捉えられ、投獄された。獄吏は彼の素性を聞いて、鼻で笑い「神を信じ、神に信頼を置くことがいかにおろかなことか、自分の体でじっくりと味わわせてやる」と彼に一切の食事を与えないことを決めた。彼は自分ではどうにもコントロールできない状況に置かれたことを知ったが、なぜか平安な表情をしていた。なぜなら彼は、必ず神様が助けてくださるという確信があったからである。薄明かりの射す格子窓を見つめているとフッと黒い影と共に一匹の猫が口にパンをくわえて現れたのである。ずっしりとした質感のパンである。彼はその猫からパンをもらうと感謝してそれを食した。次の日も、また次の日も猫は同じように彼の独房にパンを運んできた。数日たって、獄吏は衰弱し神に頼ることはおろかだったと食物を懇願する姿を思い浮かべながら彼の独房を訪れた。「お前の信じている神は、お前を救うことはできなかっただろ」といわんばかりに。しかし、彼は血色もよく、飢えも衰弱も見られなかった。獄吏は全く不思議に思って首を傾げたが、その時、かの猫がまた格子窓にパンを加えて現れたのである。獄吏はそれを見て両手を高く上げ大声をだした。「なんてこった、これは俺の飼い猫だ。それに、この猫がくわえているパンは、俺のパンだ。」そう言いながら、この獄吏は彼と目と目を合わせた。そして、
「神に信頼を置き、信仰に硬く立ったあなたは素晴らしい。また、あなたを助けたあなたの信じている神はもっと素晴らしい。どうか、私の家でゆっくりと食事をしながらあなたの信仰とあなたの信じている神についてゆっくりと聞かせてくれないか」
と言ったというのである。

 

弱いときにこそ強い

自分ではどうすることもできない状況で、自分の力に頼ることをやめ、神様に全てを預けたとき、私たちははじめてはっきりと神様の力を感じることができる。自分自身ではどうすることもできないときに、全てを神様にゆだねたとき、神様の力がはっきりと現れる。
コリント第2 12:9、10 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」・・・「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
自分の弱さを認め神様に頼る時、神の力を受け、私たちはきっと強くなれる。