2012年9月24日 教職員礼拝 吉田栄一

2012年9月24日

私が「私が神様につながっていたいと思うわけ(なぜ、そこに平安を見出すのか)」

今回の教職員礼拝のテーマは、①神様との出会い、②私が子ども達に伝えたいこと。ということになっています。前回私が話したときには、自分が神様に、ついていってもいいなあという気持ちになったときのことについて話をしました。(フットプリントの詩)

 

今回は、出会いというよりは、もう一歩進んで、「私が神様につながっていたいと思うわけ(なぜ、そこに平安を見出すのか)」について、話してみたいと思います。

 

 

自分自身の経験から・・・「救われた」

中学、高校と、自分はとてもいじけた(心の曲がった)少年でした。おそらく愛に飢えていたようなところがあるのでしょう。中学校の2年生くらいから、かなり心の中が曲がり始め、自分がなぜかポツンとしているように感じていました。もちろん、仲間もいるし、仲のよい友達もいるものの、色々なものがなぜか薄っぺらく、無味乾燥に思えてなりませんでした。自分の存在が、どこにもつながらず、まるで宙に浮いているような感じがして、自分の存在なんて、どうでもいいと思ったり、どうでもいいの?と自問したり、どうでもよくないと自答したり、どうどうでもよくないのならば、それをどうやって証明するのか、自分の価値(値打ち)をどうやって知る(感じる)事ができるのかなどと、ぐるぐると思い悩んでいたのだと思います。

 

この頃は、そんな自分探しの途中で、たくさんの人を心身ともに傷つけました。また、そのやり場のない気持ちは、自分にも向かい、自分自身もたくさん傷つけました。違うと知りながらも自分にとって損なことばかりを進んでやっては、回りの皆さんに迷惑をかけました。学校の先生達からも,親からも本当に困ったやつ(厄介者)だと思われていたことでしょうし、実際に係わり合いをもってプラスになることは全くないような存在だったと思います。実際に、中学から高校に上がるときの面接で「歓迎すべき生徒ではない」とはっきりといわれたことを覚えています。(今となっては、笑い話ですが)

 

でも、そんな自分たち(他にも同じように自分探しをしている仲間がいた)に対しても、本当に真剣に、親身になって関わってくれる先生がいました。今考えると、本当にそんな先生に出会うことができてラッキーでした。その先生は、口には出さないものの終始一貫して「逃げない、ごまかさない、あきらめない」という姿勢で、とにかく関わりを持とう、関わり合おう、別の言い方をすれば「君に関心がある」という信号を送り続けてくれたのです。

 

日本を訪れたマザーテレサが愛の反対語は何ですか?と記者たちにたずねたことがあったそうです。その問いに「憎しみですか?」と返すと、マザーは応えました。いいえ、愛の反対語は「無関心です」。関心を示さないこと、関わりをもたないことが「愛」の反対語であり、人を最も深く傷つけるのです。

 

悪さをして、学校のキャンパス内で授業には出ず反省のために何週間も労作をしていたときに、授業を自習にして関わってくれた先生、何度も失敗をする自分の目の前で涙を流して悔しがり、本気で殴ってくれた先生、その、先生との出会いで自分は本当に救われました。

 

その先生の口癖は「俺とお前が出会ったことには、必ず意味がある。50億の人類、人生70年の中で俺とお前が出会ったのは奇跡だ。この奇跡の出会いに意味が無いわけがない。人は出会った瞬間、関わった瞬間からお互いに対して何らかの影響を与え合うという運命、そして責任を持っている。同じ影響を与え合うのならば、その影響が相手を生かすものでなくては悲しいじゃないか。」というものでした。自分の今の状況に関わらず、ありのままを受け止めよう、関わりあいを続けていこうとしてくれている先生の心に救われたのです。

 

 

 

聖書の中に示された救い

聖書の中で、イスラエルの人々は神と近い関係にありながら、その弱さを何度も何度もあらわし、失敗を繰り返し、反抗し、神に従うことを拒みました。しかし、そんな彼らに対して一貫して変わらなかった神様の姿勢、それは「とことん関わる神、とことん赦す神、とことん愛する神」であるということでした。

 

イザヤ書46章

46:03わたしに聞け、ヤコブの家よイスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた。 46:04同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 

 

46:08背く者よ、反省せよ 思い起こし、力を出せ。 46:09思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。

 

 

新約聖書の中で、イエス様が語られたとても有名なたとえ話があります。それは、「放蕩息子」の例え話と言われていますが、次のような話です。私はこのたとえ話を何百回も読みましたが、何度読んでも、飽きることがない感動的な話です。

 

「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。

それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。・・・・」 (ルカの福音書15:11~24)

 

ここには、神様の私達に対する姿勢が顕著に現されています。神様のかかわり方の凄いところは、条件が無いところなのです。私達の状況、状態など一切関係がないというところです。私達に価値があるかないかということではなく、価値のない状態の私達を価値あるものとして関わってくださるということです。

 

ローマ人への手紙5章

 05:08しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

ヨハネ第1の手紙4章

4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

 

私達が変わったから、気がついたから、悔い改めたから赦されたのではないのです。私達に価値があるから愛してくださるのではないのです。私達が神様に背いて、悲しませ、どうしようもない状態でいるときにもずっと、私達を愛してやまず、関わり合いを持ち続け、「関心を持ち続け」、赦し続け、愛し続ける神様なのです。

 

 

私達の安全基地

自己肯定感の高い子どもは、安全基地を持っています。安全基地を持っている子どもは、自分に関心を持っている、自分を見ている、自分を理解してくれている、自分を守ってくれている存在を意識できる子どもです。だから、安心していられるのです。

 

私達自身の自己肯定感は、どこから来るのでしょうか。どんな状況においても、私達を理解し、受け入れ、関心を持ち、許し、愛してくれる神様に頼る、最高の安全基地を認める生き方から来るのではないでしょうか。

 

イザヤ書55章

55:06主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 55:07神に逆らう者はその道を離れ悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。

 

 55:08わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。 55:09天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。