2013年1月16日 教職員礼拝 吉田栄一

2013年1月16日

価値の無いものだからこそ・・・愛しい

 

「人は愛せずして生きるあたわず、人は愛されずして生きるあたわず」

 

明治文豪、徳富蘆花(とくとみろか)が残した言葉に「人は愛せずして生きるあたわず、人は愛されずして生きるあたわず」というのがあります。彼は、熊本バンドの1人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を強く受けていました。彼の言うとおり、確かに人はまったく愛を失った時に、生きる望みを失い、孤独にさいなまれ、死を意識します。動物は与えられた本能に従って、生きるだけですから、愛のゆえに悩んだりすることはありませんが、人間にとって、愛し愛されるという関係とその問題は非常に深刻です。

 

蘆花の言うとおり、人間は何も愛することなしに生きては行けない存在ですし、愛を受けずしてはまた生きては行けない存在です。こういう意味で、「愛」は人を人たらしめるために不可欠な要素であります。人間(人の間に生きる存在)から「愛」を取り除いてしまったら、ただ意味のない空白が残るだけです。世界中の人々は、みな愛を求めて生きていますが、それを得ることが出来ずに多くの人たちが空しさを抱えています。

 

親と子の間で、夫と妻の間で、また社会の中で信頼と愛による絆が希薄になっているといわれる今の時代(聖書:終わりの時代には不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。)の中で、多くの人々は失望し、深い孤独を味わっているのではないでしょうか。誰からも愛されず、まただれをも愛することが出来ないとき、人間は本当にさびしい存在になってしまいます。

 

ある詩人は、「孤独は山にはなく、街の中にある」と言いました。街には人があふれていますが、そこに愛は、愛に基づいた関わりはあるのでしょうか。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くしあなたの神主を愛せよ。また、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とは聖書の教えですが、私たち人間には、そんなことは到底できないように思われます。愛することに関しては、人間には多くの希望がありません。

 

しかし、愛される、愛されているということに関しては、私たちにはすばらしい希望があります。聖書の御言葉は希望に満ちています。神はこのような自己中心で人を愛したり赦したりすることのできない罪人を愛してくださっているとはっきり書かれています。

 

 

●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。

 

●「‥‥愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。‥‥神はそのひとり子(キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子(キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネの手紙4:7~10)

 

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 

 

人は、自らが神や人を愛する事ができるので、人間として価値があるのではありません。人間は基本的に罪な存在なのですから、しかし、イエス・キリストは、私たち罪人(罪の支払う報酬は死であると考えるとき、まさに多くの罪を背負い、生きる価値の無い者として、愛でる価値の無い者としての自分に突き当たる)のために十字架で死んでくださり、永遠の天国に入ることのできる道、一度失われた神との関係回復の道を開いてくださいました。これが、聖書の福音であり、私たちに示された「愛」です。人は、この愛されているという事実によって、人間として価値があるのです。その愛を受けている価値あるものとして、互いに愛し合う事が進められているのです。「愛の源」は神様なのです。

 

最悪の者に、最高の形で愛を示してくださった神様、そんな神様だからこそ、そんな神様になら、どこまでも着いて行きたいと思えるのです。

 

 

 

 

徳富蘆花について

徳冨 蘆花(とくとみ ろか)は、日本の小説家。

号の由来は、自ら述べた「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然も(さも)その見所なきを余は却って(かえって)愛するなり」という実に聖書的な思想からきています。