2014年9月10日

「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしいにゅう鉢と同じである。」パウロの言葉

 

ある青年が、愛すれば愛するほど孤独を感じると、打ち明けてくれたことがあります。恐らくそれが愛の本当の姿なのだと思います。ただその孤独は以前の虚無の孤独とは異なり、愛する者が、私ははたしてその人の愛に価するだろうか、この私はその人の愛に価するだろうか、この私は何者かと問う平安と責任の孤独なのです。愛の中で私たちはへ初めて責任とは何かを問い、また答えることができるのではないでしょうか。

 

遊戯化され観念化された恋は情熱的であったり、饒舌であったりします。しかし、この恋は自己に深く沈潜することなく、これらの問いを真剣に問うことは出来ません。このように、真の愛は、愛すれば愛するほど、自己を自己とし、他者を他者として確立させ、再発見してゆく厳しさを持っているものなのです。

 

愛は時として、人を沈黙と内省に導きます。パウロが言うように、どのように私たちが素晴らしい言葉を語ったとしても、「もし愛がなければ・・・やまかしい鐘」にしかすぎないのです。


中世の修道士だったフランチェスコは、ある富豪宅に一夜の宿を借りることになりました。その富豪はフランチェスコが夜をどのように過ごすのかを知りたくて、こっそり隣の部屋から覗いていました。屋敷の者たちがベッドに入る時間になるとフランチェスコもまた床にもぐりこみました。富豪は少しがっかりしてしまいました。ところが、皆が寝静まった深夜、彼はベッドを抜け出し、ひざまずき祈り始めたのです。「父よ(神様のこと)」と一言語りかけては、ハラハラと涙を流し、またしばらくして「父よ」と語りかけては、涙を流すのです。そして、一晩これを繰り返しました。翌朝、フランチェスコが出発するとき、富豪は彼と共に旅に出たと言われています。

 

フランチェスコの祈りは彼の深く沈潜する神への愛と真摯に内省する姿勢を感じさせます。このように、人はむしろ愛によって、自分がどのような人間なのかを試されているのかもしれません。

 

「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」パウロの言葉